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シャカムニ・ブッダのことば
道の人

中村 元訳『ダンマパダ』第20章・道229

多くを説くからとて、それゆえにかれは
道を実践している人ではない。
たとい教えを聞くことが少なくとも身をもって真理を見る人。
怠って道からはずれることのない人、
かれこそが道を実践している人と呼ばれる。

頭を剃ったからとて、戒めを守らず偽りを語る人は
道の人ではない。
欲望と貪りに満ちている人は、どうして道の人だろうか。
大きかろうと、小さかろうと悪をすべてとどめた人は、
もろもろの悪を静め、悪を滅ぼしたのだから
道の人と呼ばれる。

宗派の争いは釈迦の恥

 仏教での宗派の違いは『ブッダ』に成る道(実践・方法)の違いに因ります。キリスト教やイスラム教のように教義の解釈の違いではありません。富士登山に例えるならば、山梨県側から登るか、静岡県側から登るかというようなものです。ゆえに仏教界には「宗派の争いはシャカの恥」という言葉があります。
では「ブッダ」に成る道、すなわち「教法」はいくつあるかというますと、経典は4万8千法と伝えています。しかし、その4万8千は実際にある数字ではありません。それは古代インドにおいてその事柄がたくさんあることを示す詩的誇大表現なのです。従って仏教だけではなく他にも良く用いられている数字です。
原始経典『ウダーナヴァルガ(感興の言葉)』には、つぎのようなお釈迦様の言葉があります。

(私)ゴータマのこの弟子たちはよく覚醒していて、昼も夜もつねに『仏』を念じている。
(私)ゴータマのこの弟子たちはよく覚醒していて、昼も夜もこころの統一安定を念じている。
(私)ゴータマのこの弟子たちはよく覚醒していて、そのこころは瞑想(禅定)を楽しんでいる。
(私)ゴータマのこの弟子たちはよく覚醒していて、そのこころは安らぎを楽しんでいる。

中村元訳『ウダーナヴァルガ』念いをおちつけて一二・一五・二)

 このようなブッダの言葉を発展させて生まれたのが大乗仏教です。そして、その大乗仏教が中国経由で我が国に伝来し、今にあるのが日本における各宗派の仏教です。
 例えば、真言宗系・浄土宗系・日蓮宗系は「念ずる行」に重きを置いています。禅宗系は「禅定の行」に重きを置いています。天台宗は、「円教」「密教」「念法」「禅法」「戒法」のすべての行に取り組んでいます。その概要はつぎの通りです。
 なお、奈良時代の三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗の南都六宗は、当初、「宗」を「衆」とも書き、それは公家貴族を養成を目的にした公認の学修団、すなわち今の大学の学部・学派のようなものでしたので、ここでは省略します。



【天台宗】
宗祖 中国の天台智者ちぎ(538〜597)を高祖とし、伝教大師最澄(766〜822)を宗祖とする
本尊 釈迦如来、阿弥陀如来
本山 比叡山延暦寺。
主な寺院 三千院、三井寺、善光寺、中尊寺、日光山輪王寺、浅草寺、寛永寺など。

 宗祖、伝教大師最澄は、「一つの宗旨だけでは、仏(お釈迦様のこと)の教えの全てを汲み取ることは出来ない」とし、一行にとらわれることなく、すべての行を取り入れました。そして、

「国宝とは何ぞ。宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝となす。ゆえに、古人のわく『経寸十枚、これ国宝にあらず。一隅いちぐうを照らす、これすなわち、国宝なり』

と述べて、国の一隅を照らす人材の育成を目的にしました。
 そこで、天台宗は『法華経ほけきょう』『無量義経むりょうぎきょう』『観音賢経』の法華三部経を円教えんぎょう(完全な教えという意味)と位置づけて、その『円教』を根本に、鑑真和上が日本に伝えた『戒法』、それに最澄が遣唐使として唐に渡り研修した『密教』(これを台密という)、それに『禅法』、『浄土教』の五行を修身し、ブッダに成ることを目指します。

 ちなみに、戒法は『梵網菩薩戒経ぼんもうぼさつかいぎょう』、密教は『大日経』『金剛頂経こんごうちょうぎょう』、禅法(摩訶止観まかしかんと呼んでいる)は『般若心経』などの般若経典、浄土教は『無量寿経』『阿弥陀経』『観無量寿経』を読誦しての修行です。
 そして、「朝に題目、夕に念仏」といって、朝は護摩ごま いて、天台宗の根本である法華経を読みます。これを題目と呼んでいます。夕には「念仏」を称えます。その朝の題目は、日蓮宗のように「南無妙法蓮華経」と繰り返し称えることではありません。『法華経』を読むだけです。この念仏も浄土宗や浄土真宗のように「南無阿弥陀仏」と繰り返し、繰り返し称えるのではありません。『阿弥陀経』などの浄土三部経を読んだ後に、阿弥陀仏を心に描きながら「南無阿弥陀仏」と数回称えるだけです。これを観想念仏といいます。
 なお、伝教大師最澄の夢がかなったのは、大師の死後から約300年を経た鎌倉時代初期に入ってからのことでした。そのとき、この天台宗比叡山での厳しい修行を積んだ僧の中から法然上人、親鸞聖人、栄西禅師、道元禅師、日蓮上人、一遍上人などの聖人がつぎつぎに誕生し、それぞれが一行をもって宗派を立ち上げて、日本に仏教を興隆させました。これをもって天台宗本山、比叡山は日本仏教の母山と呼ばれています。


【真言宗】
宗祖 弘法大師空海
本尊 大日如来・不動明王
本山 高野山金剛峰寺(高野山真言宗)
系列 東寺(東寺真言宗)、仁和寺(真言宗御室派)、大覚寺(真言宗大覚寺派)、泉涌寺(真言宗泉涌寺派)、善通寺(真言宗善通寺派)、西大寺(真言律宗)、根来寺(真義真言宗)、長谷寺(真言宗豊山派)、智積院(真言宗智山派)など。

 真言宗は『大日経だいにちきょう』『金剛頂経こんごうちょうきょう』を両部の大経と位置けて、それに『理趣経りしゅぎょう』『般若心経』『観音経』などを補宗の経典としています。
これをもとに「三密の行」、または「梵我一如」のぎょう と言って、護摩ごまを焚き、手に 印契いんけいを結び(これを身密という)、心に本尊(不動明王)を観想し(これを心密という)、口で「真言」または「陀羅だら 」を唱え(これを口密という)て、ブッダに成ることを目指します。
梵我一如とは、ぼん(宇宙)と、われ(自分の魂=アートマン)を一つにすることです。これは仏に成りきるための行で、「即身成仏そくしんじょうぶつぎょう」とも呼びます。
 「護摩ごま」はサンスクリット語ホマ(homa)の音写訳で、バラモン教の火天・アグニ(Agni)を祀って行われる火の供儀くぎのことです。
 「真言」はサンスクリット語マントラ(mantra)の意訳で、バラモン教聖典「リグ・ヴェーダ」を形成している神々に呼びかける誦句しょうく祈願きがんの誦句のことです。このマントラには神聖な力、神を支配する力があるとされることから、中国では「真言」と意訳しました。
 「陀羅尼」はサンスクリット語ダラニ(dharani)の音写訳で、真言や明呪みょうじゅ(vidha)と同様に呪文じゅもんの一種です。このダラニはソワカで終わるのが一般的です。ちなみに、有名なのは『般若心経』の「羯諦羯諦ぎゃあていぎゃあてい波羅羯諦はーらーぎゃあてい波羅僧羯諦はらそうぎゃあてい菩提薩婆訶ぼーじーそわか」のソワカです。

 中国ではこの「マントラ」と「ダラニ」を神聖で「言魂」があるゆえ、すべて音写訳にしました。従って、その中国語には全く意味がありません。その意味のない中国訳「真言」と「陀羅尼」を、わが国の僧侶たちは、さらにインドの言葉から遠くかけ離れた呉音読みで称えます。それゆえ、全く意味の分からない 呪文じゅもんとなっています。
 この真言宗を真言密教、また「東蜜」と呼びます。東蜜は空海が東寺を真言密教の根本道場としたことによる呼び名です。
 ところで「密教」とは、広義には神秘的な宗教、狭義には大乗仏教の秘密の教えを指します。これに対し、円教・禅法・浄土教などの教えは秘密なものはないとして「 顕教けんぎょう」と呼びます。
ちなみに、この密教は大乗仏教の誕生から、約600年を経た紀元7世紀頃、インドのムンバイで、仏教の生き残りをかけて、ヒンズー教ドラビタ族の呪術と習合させ誕生させたとされています。


【浄土宗】
宗祖 法然上人(1133〜1212)
本尊 阿弥陀如来
本山 華頂山知恩教院大谷寺かちょうざんちおんいんぎょういんおおたにでら(知恩院)
主な寺院 宇治・平等院、奈良・当麻寺、長野・善光寺、京都・清水寺阿弥陀堂、鎌倉大仏・高徳院、京都・金戒光明寺、京都・清浄華院、京都・伝通院、東京芝・増上寺、鎌倉・光明寺、大阪・法善寺、東京芝・増上寺、鎌倉・光明寺、大阪・法善寺、岡山県・誕生寺

 浄土宗は、『無量寿経』『阿弥陀経』『観無量寿経』の浄土三部経をもとに、阿弥陀仏の本願のもとに浄土に救われて、来世でブッダに成ることを目指します。ゆえに、「他力本願」、「易行道」とも呼ばれています。
実は平安時代まで仏教は貴族公家のための宗教で、庶民を対象にしていませんでした。これを変えたのが、比叡山で智慧第一と称えられていた法然上人です。
 と言うのも、その頃、庶民は権力者の間で相次ぐ闘争によって疲弊し、絶望的になっていました。それを見た法然上人は「庶民の苦しみは観念的な哲理てつりでは救われない。また最澄や空海が広げた密教では国の平和がない。庶民を救うには『無量寿経』『阿弥陀経』『観無量寿経』で説かれている阿弥陀仏の本願によって、誰もが『ほとけ』に成れる浄土教でなければならない」ととくご得悟して、京の街に下り、そしてその浄土教の一行、すなわち「専修念仏せんじゅねんぶつ」をもって人々の済度に取り組みました。これは日本初の仏教革命でありました。
 さて、専修念仏とは阿弥陀仏に向かって、ただひたすら「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」と声に出して称える祈りのことです。よって、これを口称くしょう念仏ともいいます。
 声を出して祈るのは阿弥陀仏と心を強く結ぶためです。『無量寿経』には、衆生済度を本願とする阿弥陀仏と心を一つにするならば、また阿弥陀仏の名を十回称えて祈るならば、出家・在家の区別なく、また地位・職業も、富者・貧者も、老若男女も、聖人・凡人も、賢者・愚者も区別なく、すべて等しく阿弥陀仏に救われて極楽浄土に往生する。すなわち、誰もが来世で『ブッダ』に成れるとあるからです。
 ゆえに、浄土宗は『無量寿経』『阿弥陀経』『観無量寿経』の浄土三部経を所依の経典とし、そのうえで『華厳経けごんきょう』『般若心経』『法華経』『梵網経ぼんもうきょう』『遺教経ゆいぎょうきょう』なども傍明の浄土経論として読誦しています。


【臨済宗】
宗祖 栄西禅師(1141〜1215、栄西ようざいとも呼ぶ)
本山 建仁寺(建仁寺派)、東福寺(東福寺派)、建長寺(建長寺派)、円覚寺(円覚寺派)南禅寺(南禅寺派)、国泰寺(国泰寺派)、大徳寺(大徳寺派)、向嶽寺(向嶽寺派)妙心寺(妙心寺寺派)、天竜寺(天竜寺派)、永源寺(永源寺派)、方広寺(方広寺派)相国寺(相国寺派)、佛通寺(佛通寺派)、興聖寺(興聖寺派)
本尊 :釈迦如来

 法然上人に続いて、栄西禅師も権力者と交わりぜいける比叡山の僧侶たちを批判して山を下り、そして中国・宋に二度渡行して修行を積み、戒律厳守の臨済禅の印可を受け、臨済宗を開宗しました。
 一度目は当時、宋は天台教学が衰退し禅宗が主流であったために志半ばで帰国。その後、目的地を陸路インド(天竺てんじく)に変えて再び入宋にっそう。しかし宋は政情不安で、天竺への旅立ちは許可されませんでした。そこで栄西はそのまま宋に留まり、天台山にて臨済宗黄竜派虚庵きょあんの弟子となって禅を修行、そして臨済禅の印可いんかを受けました。
ちなみに、「禅宗」とは遙かインドから来た達磨大師だるまだいし(紀元500〜)の流れにある五家七宗の宗派を総称した呼び名で、臨済宗もその五家七宗の一派です。
 その禅宗が目指すのは、お釈迦様が菩提樹の下で禅定し悟りを開いたように、坐禅修行をもとに悟りを開きブッダに成ることです。それゆえ、「不立文字ふりゅうもじ」「教義別伝きょうぎべつでん」「以心伝心いしんでんしん」「直指人心じきしにんしん」「見性成仏けんしょうじょうぶつ」を旨にして、拠りどころとする経典を持たないことを原則とします。
 それを前提に、臨済禅は坐禅+こうあん公案に重きを置きます。そして『金剛般若経こんごうはんにゃきょう』『般若心経』『維摩経ゆいまきょう』『遺教経ゆいぎょうきょう』などを読誦します。
 公案とは禅の問題について問答することです。それゆえ、臨済禅は観念的で非常に難解と思われていますが、しかし栄西禅師の禅は哲学ではありません。問答によって、己の未熟さを悟り、迷いから解脱して人のために尽くせというのが栄西禅師の禅道です。
 なお、栄西禅師は宋から茶の種を持ち帰り、茶道さどうを広めたことでも有名です。それも人々の心身健康のためというものでした。


【浄土真宗】
宗祖 親鸞上人(1173〜1262)
本山 西本願寺(浄土真宗本願寺派)、東本願寺(真宗大谷派)、専修寺(真宗高田派)佛光寺(真宗佛光寺派)、興正寺(真宗興正寺派)、錦織寺(真宗木辺派)
本尊 阿弥陀如来

 浄土真宗は、ただひらすら阿弥陀仏の本願(救い)によって、ブッダ(仏)に成ることを目指します。それは「阿弥陀仏をただ念ずるだけで救われる」、また「心に阿弥陀仏を思うだけでも救われる」という「絶対念仏」「絶対阿弥陀仏」の思想をもとにしてのものです。
 貴族・日野有範ひのありのりを父とする名家に生まれた親鸞上人は九歳で出家して比叡山に上り、約20年間に亘って修行を重ねた後、二十九歳にて下山。そして、黒谷くろだにの法然上人を訪ねて門下となり修行を重ねました。
 親鸞上人は、人間の欲望から止むことのないる殺し合いや騙し合いなど、その醜い生き様を見て悩み苦しみ、その答えを法然上人が説く浄土教に求めました。
 そして、法然上人が説く、阿弥陀仏は破戒・無戒の者を救うために生まれた仏であるとする「悪人正機説」と、「阿弥陀仏と心を一つにする口称念仏」を深く思索しました。その結果、たどり着いたのが「自分は救われざる悪人であると自覚して、救われる心そのものをも捨てることが大慈悲の阿弥陀仏に救われる」、また、「苦に生きる人間そのものが阿弥陀仏の大慈悲によって救われる」というものでした。
 悪人とは『戒』を犯した人、いわばキリスト教で言う罪人つみびとのようなものです。つまり、法然上人が説く「悪人正機説」は、阿弥陀仏は罪人つみびとのためにあるというものです。これは 「神は貧しき者のためにある」と説くキリスト教に大変近いものです。
 しかし、キリスト教では「人は生まれながらにして罪人つみびと」ですが、仏教では「その行為において罪人つみびと」で、しかも「人は生きるにあたって、罪を犯さぬ者はいない」です。
 これをもとに、親鸞上人は口称念仏くしょうねんぶつに執らわれない、心に阿弥陀仏を思うだけでも救われるとする絶対阿弥陀仏=絶対念仏=絶対他力の悟りに至りました。端的に言うならば、それは多額な布施も、禅定の修行も要らない。ただ阿弥陀仏と心を一つにすることによって、阿弥陀仏に救われてブッダに成れるというものです。
 親鸞上人は優秀な弟子をたくさん育てました。しかし、「親鸞は弟子一人ももたずそうろう(歎異抄)」、また「なにごとを教えて弟子というべきかや、みな如来(お釈迦様)のおん弟子なれば、みなともに同行どうぎょうなり(口伝抄)」と述べ、そして自らをば「非僧非俗(僧侶にも非ず、俗人にも非ず)」と称し、「ただひたすらに阿弥陀仏」、「ただひたすら法然上人」を貫かれました。
 親鸞上人亡き後、この思想は娘、覚信尼を中心とする人々により浄土宗『本願寺派』として継承されましたが衰退し、その後、第八世蓮如が室町時代後期に現れるまでの間、本願寺は天台宗の末寺でした。
 その蓮如が『一向宗いっこうしゅう』として独立させて宗派を開宗し親鸞聖人の思想を興隆させたのであります。そして明治時代に入り『浄土真宗』と改名。通称では、古くから『門徒宗』とも呼ばれています。
 ちなみに、親鸞上人は著書の中で、法然上人の教えを指して「浄土真宗」、または「真宗」といい、己の教えをいってはおりません。
 なお、浄土三部経のみを処り所し、それ以外の経典は読誦しません。


【曹洞宗】
宗祖 道元禅師((1200〜1253)
本山 永平寺・総持寺
本尊 釈迦如来

 曹洞宗は、あらゆる生きとし生きるものに仏性ぶっしょうがあるという『一切衆生いっさいしゅじょう有悉仏性ゆうしつぶっしょう』の教えをもとに「只管打坐しかんたざ」、すなわちただひたすら坐ることに重きを置いて禅定し、ブッダに成ることを目指します。それは「見性仏性」といって、己がブッダ(仏)であることに気づくための坐禅でもあります。
 道元禅師は内大臣く が久我通親みちちかを父に、摂政せっしょう・藤原基房もとふさの三女伊子を母とする名家に生まれました。しかし、三歳で父を、八歳で母を失ったため、十三歳で出家して比叡山に上り、天台座主公円こうえんのもとで修行をかさねましたが、比叡山では仏法に解答が得られなかったために十年間で下山。
 そして、栄西禅師を訪ねて門下(建仁寺けんにんじ)となりました。しかし、栄西禅師は間もなくにして寂入したため、そこで禅の道を求めて中国・宋へ渡航しました。
入宋にっそうした道元は、洞山良价とうざんりょうかいの法系で中国曹洞宗の正脈を継ぐ高僧如浄にょじょうを天童山に訪ねて「只管打坐しかんたざ」の禅法を受け参禅。そして得悟。その後さらに二年間、修行を重ね、二十七歳にて帰国。そして、日本『曹洞宗そうとうしゅう』を開宗しました。
 要約すると、道元禅師の仏道は二つです。一つは、『ほとけ』の道を求めて坐るは、もうすでに『ほとけ』の世界に一歩入っているというもの。ゆえに、『ほとけ』の道を求めて、ただひたすら坐る。すなわち、これが「只管打坐しかんたざ」です。
もう一つは、仏道を習うというは自己を習うなり。これは言葉や知性ではなく、日常の行動によって聖なる自己を確立しなければならないというものです。そこで道元禅師は『正法眼蔵』を著し、修行者に厳しい規律と作法を課しました。
 この二つをもって、道元禅師は禅道の大衆化を図りました。いまやこの禅道は世界へと広がっています。
なお、曹洞宗では禅宗の「以心伝心」・「教義別伝」を前提に、『法華経』『華厳経』『般若心経』
維摩経ゆいまぎょう』『涅槃経ねはんぎょう』『梵網経ぼんもうぎょう』『遺教経ゆいぎょうきょう』『地蔵経』などを読誦しています。


【日蓮宗】
宗祖 日蓮聖人
本山 身延山久遠寺
本尊 板曼陀羅

 日蓮宗は『南無妙法蓮華経』とただひたすら念じ、ブッダに成ることを目指します。これは日本で生れた独自の祈りで、他の仏教国にはありません。意味は法華経の教えに帰依し、法華経の教えを実践しブッダ(仏)になります。すなわち、久遠実成のお釈迦様と心を結び、菩薩行をもとにブッダ(仏)に成りますということです。
 菩薩行とは利他行、つまり「世のため、人のため」に尽くことです。そこで、日蓮聖人は現実世界の浄土化(浄仏国土)を目指して、『守護国家論』『立正安国論』を著し、法華経の一乗妙法をもとに政治理念を確立すべきことを当時の執権に進言。そして他宗派を「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と激しく他宗を攻撃しました。
と言うのも、当時、世は相次ぐ政争と役人の腐敗がはびこり、そこに天災や蒙古襲来という国難が相次ぎ勃発し、仏教界は権力者と結びつき、まさに末法そのものの状況でした。
 日蓮はその解決を、ただ一つ「法華経」の教えに求めたのです。しかし、日蓮聖人の政権批判、他宗派批判は余りにも激しかったため、数々の迫害や弾圧に聖人は会いました。
 それでも日蓮聖人はひるまずに進言を続けましたが、幕府には受け入れてもらえませんでした。ついに刀折れ、矢がつきた日蓮聖人は身延山に退きました。そして自然の実相に身をひたしながら、日蓮聖人は弟子の養成と信徒への励ましの手紙を書き続けて、己の思想の流布に努めました。
 なお、日蓮宗は『法華経』のみを所依とし、他の教典は一切、読誦しません。


【時宗】
宗祖 一遍上人(1239〜1289)
本山 藤沢山無量光院清浄光寺(通称・遊行寺)
本尊 阿弥陀如来

 時宗では、すべてを捨てて、すべてを阿弥陀仏に委ねて、口称念仏をもとにブッダ(仏)に成ることを目指します。
 伊予の豪族の子として生まれた一遍上人は、七歳の頃から生国の継教寺で仏典を学び、15歳で得度して比叡山に上って天台の教学を学んだ後、比叡山を下り、そして九州太宰府にて法然上
人の高弟の一人証空しょうくうの直弟子、聖達しょうだつ上人のもとで修行しました。
 その結果、一遍上人が辿り着いたのは「私たちはすでに阿弥陀仏によって救われているのだ」ということでした。
 一遍上人は、それを人々に気付かせるために、己の身も心もすべてを捨てて、「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」という念仏札(これを「賦算ふさん」という)を配りながら、『口称念仏くしょうねんぶつ』と『踊り念仏』をもって全国を遊行し歩きました。それゆえ、人々は一遍上人を『捨てひじり』と呼びました。
 この踊り念仏は、平安時代中期、『念仏聖』、『阿弥陀聖』と人々から称された空也(903〜972)にならってのものです。
 空也は当初、在俗の修行者、いわゆる半僧半俗の僧で、阿弥陀仏の名を唱えながら諸国を遊行遍歴し、各地で井戸や池を掘り、道を拓き、橋を架け、野山に捨てられた遺体を焼き、そして京に移ってからは市中で乞食した供物を貧しい人に与えることを常としました。
 その後、四十六才で比叡山に上り、天台座主延昌について受戒し、四十八才のときに金泥般若経一部六〇〇巻の書写を発願。そして14年かけて完成させ、京都東山の西光寺(現在の六波羅蜜寺)にて入寂しました。ちなみに、 醍醐天皇の第五皇子とも伝えられています。
 さて、時宗は当初、「時衆」でした。それは一遍上人のもとに集まった信者の呼び名で、これは唐時代の浄土教高祖、善導大師ぜんどうだいしが昼夜六時の念仏法会ほうえに集まって浄土への往生を願った人々を「時衆」と呼んだことにちなんでのものでした。その『時衆』が『時宗』になったは、一遍上人の入寂から約四百年を経た江戸時代に至ってからのことです。
 なお、時宗も浄土真宗と同様、浄土三部経以外の教典は読誦しません。また、今もあちこちで行われている盆踊りのほとんどは、空也に始まり、一遍上人が広めた踊り念仏がもとです。


【黄檗宗】
宗祖 隠元禅師
本尊 釈迦如来・阿弥陀如来
本山 黄檗山万福寺


 黄檗宗おうばくしゅうは、端的に云うと臨済宗の系統ですが、「念仏禅」といって、禅と阿弥陀仏の本願(救い)による修行、すなわち磁力と他力によってブッダ(仏)に成ることを目指します。
 この黄檗宗は、江戸時代、長崎興福寺の僧・逸然たちの招きによって来日した隠元禅師を宗祖とします。
隠元禅師は中国でも大変有名な高僧でした。63歳の時に弟子20人ほどを引き連れて、3年だけの滞在ということで来日しましたが、徳川幕府の外護と諸大名の支援を受けて、さまざまな社会事業と庶民の教化に努めたことによって、黄檗宗が急発展したことから、そのまま日本に留まりました。
 ちなみに隠元禅師は我が国にもたらしたのは念仏禅だけではありません。インゲン豆や孟宗竹、レンコン、スイカなども隠元がもたらしたとされています。更には本山万福寺の植物油を使った精進料理のひとつ、普茶料理はとても有名です。
 なお、黄檗宗は禅宗の一派であるがゆえに、当然のこと、「不立文字」「以心伝心」「教外別伝」「見性成仏」が原則ですが、それを原則に『般若心経』『観音経』『大悲咒だいひしゅ』を唐音で読誦しています。



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